論理的であることはいいことなの? なんで?

標記の題目で,祝日の午後を潰しました。

一般になにかの価値を評価するには,それがなんであるかがはっきりしていなければならないでしょう。ということで,まず論理的であるとはどういうことかを考えてみました。

どうやってそういう結論に至ったかは(覚えていないので)省略しますが,論理的とは「複数の出来事や概念,ものなどの間に成り立っている関係を明らかにしようとする態度」を指す言葉である,という見方が考えられるんじゃないかと思います。

別の言葉で言うと,あれとこれはどう関係しているのか,ということを正確に把握しようとすることです。地震津波はどう関係しているのか。彼にアリバイがあることと私に疑いがかけられていることとはどう関係しているのか。子供の朝食を摂る習慣と学校での成績とはどう関係しているのか。抜き打ちテストが不可能であると思われることと抜き打ちテストが水曜日に行われたこととはどう関係しているのか。凶悪犯罪を犯したことのある人の多くが日常的にパンを食べているが,犯罪とパンはどう関係しているのか。など。

論理的な活動と言われそうなものには,次のような要素が含まれるんじゃないかなあ,という気がしています。これで全部ではないでしょうし,主観ですから偏っているかもしれませんが。

  • 関係する要素の抽出とそれらの結び付き方の分析
  • 要素の間の一般的な法則性あるいは既知の法則との対応の発見
  • それに基づいた新しい知識の発見
  • 以上の活動の,言語などによる客観的な形での表現

論理的であるとは,このようにして関係する要素の間の結び付き方について何らかの法則性を見出し,新しい知識をもたらそうとする態度をいうと考えられるんじゃないだろうかと。

とりあえず上のような「論理的」の定義に基づいて,じゃあそれってなにがいいの,ということを考えてみました。

このようなアプローチは,複雑なものを調べるための手段として強力なんじゃないだろうかと思うのです。複雑で一見しただけではよくわからないものがいったい本当はどうなっているのかを知りたい。そういうとき,複雑なものを複雑なままただ睨むのではなくて,まずは細かい構成要素に分解したり,重要ではなさそうな部分を切り落としたりしてみる。そしてより基本的な要素やそれらのつながりを分析し,法則性を見出す。あるいは,それらに適用できる既知の概念や定理が見つかることもあるかもしれない。そうして得られた部品をもとに,現象を再構成する。その結果,分解・再構成を行う前はわからなかったようなことが見えるようになるのではないでしょうか。